実話の映画「子宮に沈める(しきゅうにしずめる)」の感想・解説です。この記事は映画のネタバレを含んでいます。この映画はある一人の女性が結婚をして子供を産んでから育てていく過程で、ネグレクトとなっていく過程を描いた社会的ノンフィクション映画です。
アマゾンプライムでも時々配信しているときがあるようです。
キャスト
監督・脚本: 緒方貴臣
出 演:伊澤恵美子、土屋希乃、土屋瑛輝、仁科百華
映画のあらすじ
由希子(伊澤恵美子)は、娘の幸(土屋希乃)と蒼空(土屋瑛輝)と夫の4人家族でした。専業主婦として一人で子供二人の面倒を見る由希子でしたが、いつしか夫は由希子への愛情を失なっていきます。夫との仲をもう一度深めたい由希子とは裏腹に夫は由希子に一方的に離婚を告げられてしまいます。
仕方なく、子ども2人を連れてアパートで新生活をスタートさせ、良き母であろうと奮闘します。しかし、シングルマザーで二人の子供を育てることは精神的にも金銭的にもつらいことでした。特に若くして子供を産んでいる由希子には学歴も職歴もないため、まともな職につくことすら難しかったのです。
それでも懸命に子供の面倒を見る合間で医療事務の資格の勉強をしていました。ある日、友人からお金を稼ぐなら夜の仕事がいいと言われ、水商売を紹介されます。子供の生活費を稼ぐために仕方なく水商売(風俗)をはじめた由希子でしたが、夜は遅く、子供たちの世話をしながらでは資格の勉強などできるはずがありません。
仕事の勉強の両立ができなく、また頼みの綱の託児所も子供に熱があるときは由希子自身が子供の面倒を見なければならなく、それも負担になりました。水商売が生活になってきた由希子は服装も見た目も派手になり、いつしか男ができ、彼に夢中になっていきます。
一方で子供への愛は冷めていき、この頃から由希子の育児放棄はどんどんエスカレートしていき、いつしか子供を置いてアパートから姿を消してしまいます。残された幸と蒼空は小さな子供二人だけで台所の食料をあさります。
しかし、当然小さな子供二人で生き延びることはできず、幼い蒼空がまずは餓死してしまいます。一人残された幸は必死に食べ物を探します。
結末ラスト
しばらくして由希子が帰宅します。幸は母親が帰ってきたことを嬉しそうにしますが、由希子は淡々と部屋を整理しはじめます。お風呂に水を張った由希子は蒼空を洗います。由希子は幸を風呂場に連れて行って溺死させます。
子供二人の遺体をビニールに包んだ由希子は、今度は自らの子宮に毛糸のかぎ針を入れます。自身の堕胎が終わった由希子は呆然とベランダにたたずむのでした。
映画解説
映画のシーンで印象的な部分をもう一度振り返りたいと思います。
冒頭の生理(経血)シーンと最後の堕胎による出血
映画を見始めていきなり生理の血が出てきて驚いた人も多いだろう。こんなシーンをいきなり入れる意味があるのだろうか?と。
しかし、このシーンは冒頭の生(整理)とラストの死(堕胎)を比較する重要な内容になっています。
ラストで毛糸のかぎ針で3人目を堕胎する由希子からは血がゆっくりと流れ落ちます。同じ子宮から流れる血なのに、冒頭の子供を産むための出血とは真逆のなんとも対照的な血なのです。
最後(ラスト)で蒼空が洗濯機へいれられるのはなぜか
最後に、幸はお風呂場へ連れていかれるのは娘を殺害するためですが、息子の蒼空は洗濯機へ入れられます。これはすでに餓死してウジなどがわいている息子をきれいにしてやろうとしたと考えられます。
よく死んだペットをゴミ箱に捨てる人をサイコパスと呼んだりするように、生き物とそうでないものの区別がもはやついていない、正常な判断ができていないと考えられます。
大阪二児餓死(置き去り死)事件
この映画「子宮に沈める」は実際に2010年に発生した大阪市西区のマンションで2児(3歳女児と1歳9ヶ月男児)が母親の育児放棄によって餓死した「大阪2児餓死事件」がもととなった作品です。
映画の内容は壮絶たるもので、そのほとんどが陰鬱とした雰囲気で進む本作ですが、実際の事件はさらに悲惨な事件となっています。
映画の元となった事件
大阪二児餓死(置き去り死)事件についてはWikipediaがとても詳しく書いてありますので抜粋していきます。
2010年7月30日、「部屋から異臭がする」との通報で駆け付けた警察が2児の遺体を発見。死後1ヶ月ほど経っていた。なお遺体が発見されるまで「子供の泣き声がする」と虐待を疑う通報が児童相談所に何度かあったが発覚しなかった。同日に風俗店に勤務していた2児の母親(当時23歳)を死体遺棄容疑で逮捕し、後に殺人容疑で再逮捕することになりました。
以上Wikipediaから抜粋し一部編集
この飽食の時代に子供が餓死する事件として当時社会的にも話題になった事件です。
下村(中村)早苗被告の裁判
犯人の名前は下村早苗さん。現在は養子に入り苗字は中村に代わっているそうです。
犯行の動機はホストクラブにはまってしまい、子供に食事をさせたりお風呂に入れてあげるのが面倒になり「子共なんていなければいいと思うようになってしまった」とのことでした。さらに彼女は「食べ物を与えないと死んでしまうことは分かっていた」と供述していることから裁判では死体遺棄の罪にしては異例の懲役30年の判決が下りました。
当時インターネット上でも「死刑にすべき」「同じように餓死させるべき」など過激な意見も飛びました。これはこの映画を見た人もそう思ったのではないでしょうか?子どもには何の罪もない。母親にすべての責任がある、と。しかし、この映画を作った監督の緒方さんはそういった社会の多くの意見も気持ちはわかると組んだうえで敢えてこの映画にもう一つ別のメッセージを載せています。
映画が伝えたいメッセージ
映画は通常夢や希望を描くエンターテイメントとしての役割を持ちますが、この映画「子宮に沈める」ではある社会問題を取り上げています。それはネグレクトの本質は、母親にあるのではなく社会の手が届かない弱者の悲惨な運命と密接に関連しています。
育児放棄の親は悪人なのか
何かをすることが犯罪になることがあります。人を殺してしまう、人のものを盗んでしまう、法律でやってはいけないことをしてしまうことは刑法によって罰せられます。
しかし、育児放棄は全くの逆で、やらないことが犯罪になってしまいます。
それゆえ、育児放棄は通常の犯罪よりも犯罪の実感が少ないのではないかと思います。なにしろ、育児放棄中は自分は別の好きな男といたりするわけなので、犯罪の感覚がかなり薄いのです。まして、経済的理由に起因するものについては「どうしようもならない」という本人諦めの気持ちも入ってしまうのです。
実際彼女は子供を憎んでいたわけではないでしょう。別に殺したかったわけではないでしょう。ただ、現実から目を背けたかった、厳しい現実に心がくじけてしまっただけなのです。
逃げたければ逃げてもいい、なんて話でもない
自分がいじめにあったとき、うつ病になりかけたとき、よく「逃げたければ逃げればいい」なんて言います。でも育児についてはそうは簡単にはいかないのです。なぜなら、つらいから逃げ出すと、子供が死んでしまうからです。
まるでうつ病の人に「もっと頑張れよ」と言っているのと同じでしょう。
さらにかわいそうなことに実際の事件でも彼女に手を貸して上げる人は1人もいませんでした。実の親とは音信不通、旦那とは離婚、旦那の実家はもちろん疎遠になります。
単純に被告のシングルマザーを責められない
「子宮に沈める」を作った緒方監督自身も言っています。
マスコミは連日のように、この事件を取り上げ、容疑者であり、遺体で見つかった2児の母でもある下村早苗を非難しました。この事件のニュースを知った時、私はショックを受けると同時に、マスコミや世間の一方的な母親へのバッシングに違和感を感じました。
私もこれを見て感じたのは単純に母親を罰して終わる話ではないということです。この問題は「あいつはヤリマンだ」「あいつは人ではない」などという誹謗中傷で終わる話ではありません。実際SNSやAmazonのレビューではこの手の批判がかなり多く、母親への辛らつな言葉は多く散見されます。
しかし、そんな単純な話ではないのです。「子宮に沈める」の監督が問題視しているところに私も同意します。
これらの問題は社会全体を巻き込んで、考察していくことが重要だと考えています。
私は、この題材の取材を進める中で、これらの事件の背景には、低学歴や貧困による“情報からの阻害”、社会保障の不備の隙間を突く“身近な風俗産業”が関係していると考えました。
シングルマザーの風俗堕ちという社会課題
低学歴・貧困による風俗産業の受け皿は非常に危険です。特に日本のシングルマザーの貧困率は先進国でもトップクラスであり、彼女たちは国から女性の知識も持つことができず、一度風俗産業の世界に入ってしまうとより社会から隔絶され、まともな職に就くことが困難になります。
実際風俗産業の中には託児所を設けるところもあるくらいシングルマザーの受け皿になっています。
さらに作中でもネグレクトの一端となった夜の街や男が近寄ってくることも多く、不安定な家庭になりやすいといいます。
実際この大阪二児餓死事件においても下村被告はホストにいれこんでしまったがためネグレクトに拍車をかけてしまいました。
全てのシングルマザーが社会の協力を得られるものではありません。
実際のこの事件の下村早苗さんも実の親からは勘当され、旦那とは離婚、養育費ももらえず誰からも支援を得られませんでした。まさに社会的弱者の典型で水商売の餌食になってしまうことこそがこの社会のこれからの課題でしょう。
この映画「子宮に沈める」は特に女性には抵抗のある作品ですが、この日本でもどこかで現実にこういうことが起きていることを知り、今もどこかで助けを待っているお母さんがいることを認識するためにもこういった作品は消えてはならないでしょう。
ぜひ一度あなたもこの現実から目を背けないで見てください。