ノクターナル・アニマルズの評価
★★★★☆
映画ノクターナル・アニマルズは映画の中の人物がさらにその中の小説を読むという特異な設定を持つ映画です。
何よりラスト結末に印象残る映画です。
これまでの映画の中でも最も複雑な気持ちで終わったまま見た人に何かを語りかけてくる映画でした。
個人的には好きな部類の映画です。
ノクターナルアニマルズのあらすじ
スーザンはアートギャラリーのオーナー。
夫のハットンとは裕福な生活をしながらもすれ違いの日々でギクシャクしていました。
ある日スーザンのもとに別れた元夫のエドワードから小包が届きます。
中には小説と手紙が入っています。
手紙には別れた後に小説を書いたこと、感想が聞きたいこと、もう一度会いたいか、などが書かれていました。
夫のハットンは相変わらず、出張で一緒にすごせず、眠れない夜をすごしていたスーザンは「ノクターナルアニマルズ」と書かれた小説を読み始めます。
その小説は、トニーという男性が妻子と車で旅行中に、レイという男に絡まれ妻子が殺されてしまうという話でした。
スーザンはハラハラする展開に少しづつ小説を読み続けます。
小説の中のトニーは妻子を殺された恨みから警官のボビーと共にレイたちを追い詰めていきました。
スーザンは読み続けるうちに過去のエドワードとの出会いから別れまでを思い出しながら、いつしかエドワードに会いたくなっているのでした。
ノクターナルアニマルズの解説
ノクターナルアニマルズ。邦題には「夜の獣たち」もついたこの映画で最も注目すべきは結末ラストでスーザンが待っているレストランにエドワードが来ないところでしょう。
今回はこのノクターナルアニマルズのストーリーを解説しながらラスト結末を考察していきたいと思います。
展開される3つの世界
ノクターナルアニマルズでは主に3つの場面が展開されます。
①スーザンとエドワードと離婚し再婚生活がうまくいっていない現在
②スーザンとエドワードが出会ってから分かれるまでの過去の回想
③エドワードの小説の世界(エドワードは妻子を殺されたトニーを演じる)
の3つです。
物語は①と②と③が交互に出てくるので場面がわからなくなるときもあるのですが、物語を通じて私生活もビジネスもうまくいっていない現在スーザンの描写と、小説の世界で妻子の敵を討とうとするトニーの物語が並行して流れます。
エドワードの心を写す小説の世界
映画ノクターナルアニマルズの特異なところは、物語の中にさらに「小説の物語」があることです。
その物語はエドワード本人が「僕は自分の話しか書けない」と言っていたとおり、小説「ノクターナルアニマルズ」自体はエドワードの心の中を写した鏡と言えそうです。
そんな小説「ノクターナルアニマルズ」が暗示してるものはなんだったのでしょうか。そして、何のためにエドワードはスーザンに小説を贈ったのでしょうか。そしてラストなぜエドワードはレストランに来なかったのでしょうか。ここからは私の私見をネタバレで書いていきます。
ノクターナルアニマルズが暗示するもの
小説は一言で言えば、「妻子を殺された男が復讐する」話です。
小説内のトニーを現実世界のエドワードが演じていました、役割を整理してみます。
トニー→エドワード
トニーの妻→スーザン
レイ(殺害犯)→?
トニーの妻子を殺害したレイは現実では誰を指していたのでしょうか?
この鍵はノクターナルアニマルズの言葉にヒントがあるように思いました。
ノクターナルアニマルズの意味
はじめに書いたとおり、ノクターナルアニマルズは「夜の獣たち」です。
小説では、夜中に車で走っていたところでレイたち殺害犯たちの車に絡まれてしまいました。
そのため、小説でのノクターナルアニマルズはレイたちのような夜やってきて悪いことをする無法者たちのことを指していると考えられます。
一方で現実世界で夜の獣といえば、、、、万年「不眠症」を患っているスーザン本人しか考えられないのではないでしょうか。
つまり、
トニー→エドワード
トニーの妻→スーザン
レイ(殺害犯)→スーザン
とも考えられるのです。
小説と事実の整理
小説内では「トニーはレイによってトニーの妻を奪われました」。
これを言い換えると現実では、「エドワードはスーザンによってスーザンを奪われました。」
これだけでは意味不明ですが、エドワード視点に立てば、「愛していた頃のスーザン」を奪ったのは他ならぬ「不倫に走ったスーザン」本人だったといいたいのではないでしょうか。
これだけ聞くと、エドワードは「不倫に走ったスーザン」を責めているとも見えます。
その結果、ラストでは「約束をすっぽかす」ことで「僕はもう君に興味がない」とか「君はもう過去の人だ」いう復讐のような面も見えます。
しかし、ここではもう少しエドワードとスーザンの関係を整理していこうと思います。
つまらないエドワードの小説
さて、作中でスーザンがエドワードと暮らしていた頃こんなやりとりがありました。
スーザン「あなたは自分のことばかり書くからつまらない」
エドワード「僕は作家だから自分のことしか書けないよ」
スーザン「安アパートに住んで、昼は本屋夜は小説家。ロマンチックだけどつまらないわ」
このすれ違いが結果的に二人を分かつことになりますが、エドワードは自分の分身である自筆の小説をスーザンに「つまらない」と言われたことに腹を立てます。
一方で今回の小説ノクターナルアニマルズは、傷ついた自分を表現しながら自らの苦痛を表現した作品と言えます。
そして、今回はそれを「面白い」と言い、「会いたい」というスーザン。
エドワードにとってスーザンを失ったことは何よりも耐え難い不幸だったことでしょう、そして、そんな傷ついた自分に興味を持つスーザンをエドワードは愛せるのでしょうか。
愛していた頃のスーザンではない
もう少し言い方を変えましょう。エドワードにとって今回の小説は自らの傷ついた体験を吐き出すはけ口でしたが、スーザンはそれを面白いという。
今後もエドワードにとってスーザンが面白いと思う小説を書くには、あまりにも傷が大きいのです。
彼自身がスーザンとの別れと言う巨大なショックに今後も向き合わないと同じ小説は書き続けられないでしょう。
だから彼はスーザンとは会わなかったのだと思います。
彼の小説を「面白い」と言うスーザンはもはや彼の会いたがっていたスーザンではなくなっていたのです。
もしかしたらエドワードはスーザンから「あなたらしくない小説だったわ」という連絡を期待していたのかもしれません。
最後の目のアップ
そして、それを決定づけるかのようにラストはスーザンの目のアップで終わります。
これは作中エドワードがスーザンに「お母さん似た悲しい目をしている」と言ったことを彼女自身が感じているのでしょう。
作中でスーザンの母親については詳しい話は出てきませんでしたが、スーザンは母親を「孤独な人」「あなたにはなりたくない」と思っている節があります。
そんなスーザン自身が気づけばなりたくなかった母親と全く同じになっていることに彼女自身が気づくのです。
それはエドワードが意図したものかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。
最後に
この映画は監督自身もそう言っているように見る人によってその見え方が変わる作品だそうです。
あなたはラスト結末をどう見ましたか?人によってはスーザン再生の物語と見たり、復讐の物語と見たり、個人的には今まで書いたようなエドワードの矛盾した気持ちを表現した作品だと理解しました。